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懐徳堂物語 2

懐徳堂の官許


 設立から2年後の享保十一(一七二六)年、懐徳堂は幕府から官許を受けた。これは懐徳堂という場所が公地となり、単なる三宅石庵の私塾ではない公の学校として認められたということを意味する。そもそも官許を得る運動の中心となったのは、後に二代目の学主となった中井甃庵であった。中井家はもと龍野藩に仕える武士で、甃庵の父が大坂へ出て医を開業したが、甃庵は学問で身を立てようと熱心に学問に励んでいた。財力に恵まれた他の同志たちと違って、経済的には懐徳堂の設立に貢献することができなかった甃庵が幕府との折衝に奔走したのは、何らかの形で懐徳堂のために働きたいという強い気持ちがあったからだろう。

 だが肝心の学主石庵自身は、官許を得ることにむしろ消極的であった。石庵にとっては懐徳堂は以前と同じ私塾の延長でしかなかっただろうし、徳川嫌いの大坂町人たちのなかには、せっかく町人が自分たちの力で設立した学校に、なぜ幕府の許しが必要なのかと疑問を抱く者がいても不思議ではない。そのためか官許願い出の件は、はじめ石庵には内緒で進められていくのである。しかし甃庵とともに官許運動を推し進めた道明寺屋、備前屋、三星屋らには、懐徳堂を単なる町人たちの私塾にとどまらない公的な学問所にしていこうとする思いがあった。官許を得るということは、幕府権力にすり寄るように見えるかもしれないが、自分たちの存在を公的なものとして認めさせなければ、商人たちの発言が社会的な力を持つこともない。士農工商の最下位に位置付けられた商人という身分のなかにとどまっている限りでは、その枠組みを突き崩すことはできないだろう。

後に三星屋中村良斎が書いた「懐徳堂定約」には、懐徳堂が「公儀より免許下され」た公的な学校であること、そして懐徳堂で学ぶ者たちは、その「公なる味を合点」するようにと明記されている。「公儀」の公はもちろん「お上」を意味するが、それはまた懐徳堂という場所が身分にかかわりなく誰もが学べる「公共」の場所となったことを意味する。ここには懐徳堂が商人たちの余技としての学問ではなく、社会的に意義のある学問を目指すのだという自負が表明されているといえる。甃庵が官許を得ることができたのは、このような自負を持つ商人たちの強い後押しがあったからであろう。やがて安永九(一七八〇)年には、懐徳堂はそれまでの「学問所」という名称を「学校」と改める。

 『雨月物語』の作者上田秋成は、幼少時懐徳堂で学んだことがあるともいわれているが、当時の懐徳堂について「石庵先生の時代には、それほど学問をさせるというのではなく、息子を預けてためになることを聞かせるというだけのこと。また金遣いが荒くなるとすぐに預けておく所だった。先生が厳重に門から出さず、たばこ盆の掃除から茶の給仕までこきつかわれたので心がなんとなく改まるのだった」(『肝大小心録』)と書いている。それが「学校を名乗るのはあつかましい。三宅石庵は陽明学風の学者だったが、篤実で親切だったから金持ち連中が集まって、校舎を建ててすまわせた」だけだと秋成はいう。ここからは設立当時の懐徳堂が商人たちの子弟のいわば「しつけの場」であったこと、それが石庵の死後学問を追求する場へと変貌をとげていったことを周囲の人々がどう捉えていたのか、その一端がよく示されている。懐徳堂の敷地が公地となることは、懐徳堂が町内の支配を離れ諸役を免除されるということでもある。古い弟子たちには昔の我が町の学問所を懐かしむ気持ちがあったとしても不思議はない。しかし懐徳堂が全国の文人たちの間に高い学問的名声を馳せ、明治二年まで百五十年近くも大坂の学問を支えていくことができたのは官許学校としての自負があったからだろう。そしてその学問の基盤を据えたのが五井持軒の息子、五井蘭州であった。


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