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懐徳堂物語 3

懐徳堂の学風―五井蘭洲と中井甃庵―


 『懐徳堂考』を著した西村天囚は、「世の懐徳堂を説く者、重きを石庵・甃庵に置きて、蘭州の功績を知る者、けだし稀なり」といい、助教として懐徳堂の学問を支えた蘭州の功績を顕彰している。蘭州の父五井持軒は、先にも述べたように寛文末年から大坂で教授し、『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』の四書を繰り返し講じたことから四書屋加助と呼ばれていた。懐徳堂同志たちも多くはその弟子であった。また五井家は和学も伝えており、特に日本書紀や和歌に造詣が深かった。蘭州は幼少からその父の教えを受け、貧苦の中、ひたすら勉学に励んだのである。中井甃庵とは年齢も近く、二十歳代の頃からの無二の親友であった。

 懐徳堂設立の頃には持軒はすでに亡く、大火の混乱のなかで母も失った蘭州は、親友の甃庵の願いを入れて、懐徳堂の日講を手伝っていたが、まもなく三輪執斎を頼り江戸へ遊学する。そして三十五歳で津軽藩に仕官することとなった。しかし津軽藩には学問的土壌が育っておらず、「講釈聞く者一人もなし」というありさまで雑務に使われるだけの日々が続いた。九年後、蘭州は失意のうちに致仕して大坂へ帰ってきた。江戸と津軽藩での経験は、学問が仕官につながるとはどういうことなのかを蘭州に教えたであろう。大坂商人たちの学問への志に支えられた懐徳堂の意義をあらためて感じたのではないだろうか。

 一方大坂では、石庵の死後、中井甃庵が二代目学主に就任するにあたって、五同志の一人船橋屋長崎克之が脱退し、三星屋中村良斎が家産を傾けるなど、懐徳堂は経営の危機を迎える。甃庵が一人奮闘するが、日々の講義も途絶えがちになっていた。そこへ蘭州が帰坂したのである。それは甃庵にとっても懐徳堂にとっても、まさに天恵であった。

 蘭州を教授に迎えて懐徳堂の学風は一変した。蘭州の学問は、儒学だけでなく、和学、神道、仏教、歴史、経済など実に幅広いものであった。このように豊かな五井家の学問の源流はどこにあったのか。西村天囚の『懐徳堂考』によると、五井氏は左大臣藤原魚名を祖とし、その十世の孫守安以来、大和の五井戸の邑を有する多武峰の社家であったが、戦国時代の永禄年間に五井戸に移り五井氏を名乗った。持軒の祖父守香は聡明で、幼時尊朝法親王に仕え、その恩顧を受けて儒学、和学、詩歌にも通じていた。特に日本紀の学は守香以来の五井家の家学であったという。蘭州の日本紀研究は現代でも高く評価されている。また蘭州の儒学は、石庵のように陽明学を合わせ講ずるようなことなく、父持軒ゆずりの朱子学を奉じていたが、けっして朱子学に拘泥するものではない。持軒の遺言に「朱子学を偏執する者と争弁するなかれ」とあったというが、これは朱子学を金科玉条とし、その正統を継ぐと任じて他派を論難する山崎闇斎学派への批判であろう。学問的正統を競い、空理空論に陥るのではなく、日常生活における実践につながる篤実な学問を追求することが五井家の朱子学であった。それが朱子学を信奉しながらも、批判すべきは批判し、新たな知見を積極的に取り入れていく懐徳堂の柔軟な学風を生んだのである。

 蘭州の指導のもと、懐徳堂は学校としての活気を取り戻していく。甃庵は蘭州の学問に全幅の信頼を寄せ、幼い我が子、竹山・履軒の教育を一任した。やがてこの兄弟が懐徳堂の全盛期を築くことになるのである。


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