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懐徳堂物語 1

更新日:2022年11月28日

町人学問所懐徳堂の設立


 享保九年(一七二四)三月二十一日、現在の大阪南堀江あたりにあった金屋治兵衛の祖母妙知の家を火元とする火事は、折からの強風にあおられて翌日まで燃え続け、大坂市内のほとんどを焼き尽くす大火となった。世に言う「妙知焼け」である。この大火で焼け出された人々の中には、大阪町人たちの学問の師である三宅石庵(一六六五−一七三〇)の姿もあった。石庵はかねてから縁のあった平野郷の含翠堂に難を避け、大坂市内には学問の師がいなくなってしまったのである。


 そこで石庵の弟子である商人たちは、石庵を市内に呼び戻すべく基金を出し合い、立派な校舎を建てて石庵を学主として迎えることにした。この時中心となったのは、三星屋中村良斎、道明寺屋富永芳春、船橋屋長崎克之、備前屋吉田河久、鴻池屋山中宗古の五同志と呼ばれる商人たちである。場所は現在日本生命ビルが建っている北浜の一角であり、その一筋北側には緒方洪庵の適塾が今も残る。懐徳堂の建物は残っていないが、日本生命ビルの南面には「懐徳堂旧趾之碑」が埋め込まれている。


 そもそも町人の街大坂に学問が啓けたのは、京都や江戸に比べて遅く、元禄の頃である。米を経済の土台とする徳川幕藩体制の中で、何も生産せず商売で利を稼ぐ商人たちは、士農工商といわれる身分制度の最下位に位置づけられていた。しかし百年の平和が続いたこの頃になると、貨幣経済の波は地方や農村にも及び、幕府や各藩が巨額の負債を抱えて困窮する一方で、米相場を牛耳る大坂の豪商たちは、全国の金融を動かす実力を持つようになっていた。


 しかしかつて豪商淀屋が取り潰されたように、商人たちの政治的力は弱く、また元禄期以降には、大名貸しで多額の不良債権を抱え込んだ両替商たちは踏み倒しによる破産のリスクを背負っていた。このような状況下で、大坂商人たちは自分たちの社会的役割を積極的に評価し、肯定する新しい商人倫理の確立を求めたのである。


 三宅石庵以前に大坂で塾を開いていたのは五井持軒(一六四一―一七二一)であった。持軒は京都の伊藤仁斎や中村惕斎らに学び、貝原益軒や三輪執斎などとも交わった。持軒は「四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)にさえ通暁すれば、宇宙第一の理を知ることができ、それを身に行えば為すべきことはすべて終わる」といって、生涯繰り返し四書を講じたので、「四書屋加助」と呼ばれていた。懐徳堂設立五同志をはじめ多くの商人がその弟子であったが、すでに老齢に達していた。そこに元禄十三年(一七〇〇)三宅石庵が来阪し塾を開くと、多くの商人たちがこぞって入門したのである。


 石庵は京都の生まれ。後に水戸彰考館総裁となる弟の三宅観瀾とともに山崎闇斎門下の浅見絅斎に師事したが、陽明学に傾倒し破門されたという。その学風は当時正統とされていた朱子学だけでなく、異端とされた陽明学をも併せ講じるという折衷的なもので、「鵺学問」と悪口もいわれた。鵺とは、頭は猿、胴は狸、足は虎、尾は蛇という伝説の妖鳥で、石庵の学問は「頭が朱子、尾は陸象山、手足は王陽明、鳴き声は医者」のようだというのである。だが、学派にこだわらず、わかりやすい言葉で道を説く石庵は商人たちに人気があった。


 妙知焼けの後、新築なった校舎に初代学主として迎えられた石庵は、「懐徳堂」の扁額の下、『論語』の講義を行った。「懐徳」とは、『論語』里仁篇の「君子は徳を懐う」という言葉から取られたものである。そこには商人であっても、「徳を心に抱く」君子であれという思いが込められている。まさに町人たちによる町人のための学問所の誕生であった。


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