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戦争の記憶

 私は今年満70歳になる。これまでに義父母と実の父母の4人を見送った。8年前に90歳で義母を看取った時、「ああ、次は私たちの世代の番なんだ」と実感したが、その後起こったコロナ禍やウクライナの戦争を父母たちが見ないで逝ったことをよかったと今は思う。親の世代は当然、先の戦争を経験している。戦前の日本に帰ったかのような今の状況をみたら彼らはどう思っただろう。

 だがそれは実際の戦争がどんなものなのかを体験として知っている世代が今の日本には少なくなっているということであり、戦争の記憶がどんどん希薄になっていくということでもある。我々の世代は親から直接戦争の話を聞いた世代である。その記憶を書き留めておくことは大切なことだと思う。

 私が小学校高学年の頃、夏休みの宿題で、「親から戦争の時の話を聞いてそれを作文にまとめなさい」という課題が出た。当時は平和教育が盛んな時代で、学校の先生にもシベリア抑留の経験を持つ人がいた。食べ物がなくてキャベツばかりを食べさせられ、皆んな白い大便しか出なかったこと、それがすぐに凍ってしまうのでスコップで割らねばならなかったことなど、笑い話のように語っておられたが、今になって思えば随分と過酷な体験であったとおもう。その時聞いた話はいまでも記憶に残っている。

 私が通っていたのは兵庫県西宮市の学校だったが、両親は東京下町生まれで関西に引っ越したのは私がまだ2、3歳のころである。終戦時、母は小学校6年生、父は江田島の海軍兵学校にいた。小学生の私には、ちょうど同じ年頃だった母の戦争体験が衝撃だった。聞き書きの宿題は原稿用紙20枚以上にもなった。細部は忘れてしまったが、その時母から聞いた話を書き残しておこうと思う。

 母の心にトラウマとしてのこっていたのは集団疎開の体験である。母は江東区深川で生まれ育った。私が幼いころ深川木場の川には大きな丸太が浮かんでおり、歳上の従兄弟たちはその丸太の上で遊んでいた。母の実家も木工所で、軒先には切り出された板材が何枚も立てかけられていてその木の匂いが私は大好きだった。母に連れられて里帰りすると、鉋台のてっぺんに跨っては祖父が鉋をかけるのをあかず眺めたものである。

その東京下町育ちの母にとって、親元を離れ、遠い栃木の山奥に集団疎開するのはずいぶんと辛いことだったろう。6年生だった母は下級生の面倒も見なくてはならず、器用な母は見よう見まねで縄をなって草鞋をつくったり、小さい子の虱取りや散髪までしたという。だがなによりつらかったのは常にひもじかったことだ。あまりのひもじさに歯磨き粉を練って食べたこともあったという。ガキ大将の命令でひそかに村の墓地に御供物を盗みに入り、村人に見つかってあわてて逃げて地面に伏せた時、目の前に赤いアザミの花があり、それがあまりに綺麗だったので今も忘れられないと母は言った。母は生涯アザミと桔梗の花を愛したが、桔梗の花ももしかしたら疎開中の生活とかかわっていたのかもしれない。

まだ小学生だから家族が恋しいのはあたりまえである。宿舎から見える土手の上をおおきな荷物を背負ってやってくる人影が見えると、皆んながもしや自分の親かと窓にすずなりになって目をこらしたという。母がそこに父親の姿をみとめたのはただ一回だけだった。

私が小学低学年のころ、夏になると信州に家族旅行をした。そんな時、汽車が田舎の田園風景が広がる場所にさしかかると、母はポツリと「田舎はきらいだよ」とつぶやいた。こんな綺麗な景色なのにどうして?と私は不思議だったが、母にとっては疎開の経験を思い出させる風景だったのだろう。それは長い間トラウマとなって母のなかに残っていた。

終戦の年の3月、母たち6年生は卒業式のために東京に戻った。家へ帰れる喜びで、汽車の中はお祭り騒ぎだった。だが、東京が近づき、やがて市街地に入ると度重なる空襲で焼け焦げた街並みが窓の外に広がる。その風景を目にした子供たちは静まり返り、誰も口をきくものがなかったという。やがて3月10日、東京が未曾有の大空襲に襲われることになるとは予想もせず、子供たちは東京駅に降り立ったのである。

深川の祖母は若い時に緑内障を患い失明していた。そのためもし空襲で家がやられたら子供たちはてんでに逃げて、決めておいた待ち合わせ場所で待つようにと言い渡されていた。3月10日、未明に深川から始まった大空襲は下町をすべて焼き払った。母はかねて言われていたとおり、ただ一人焼夷弾が降り注ぐ中を走って逃げた。深川の川という川が焼夷弾に焼かれて水を求めて飛び込んだ人々の死体で埋まっていた。おりからの強風で炎が通りを走り、母は川に折り重なる死体の上を渡ってなんとか逃げ延びたという。

「死体の上を走るなんて怖くなかったの?」と聞く私に、母は「怖いなんて思う余裕もなかったよ。変な話だけれど、降ってくる焼夷弾のピンク色の光がとても綺麗だった。」と答えた。私は信じられない気持ちだったが、後年坂口安吾の『堕落論』のなかに同様の記述を見つけた時、母の言葉を思い出し、極限状態に置かれた人間がどんな状態になるのか少しだけ分かった気がした。焼夷弾はとてつもなく残酷な武器である。深川をはじめ東京の下町に降り注いだ焼夷弾は折からの強風にあおられ、家も人も焼き尽くされた。その熱は途方もない塊となって、コンクリートの建物に逃げ込んだ人々が蒸し焼きになってしまったといわれる。低空飛行で焼夷弾を投下したアメリカの爆撃機も噴き上げる熱風によって操縦困難になったという。そんな惨状の中、目の見えない祖母を連れて、祖父がどのようにして逃げ延びたのか、今となっては知る由もないが、ともかく母の家族は奇跡的に全員無事だった。「風下の向島へ逃げた人たちは皆んな死んでしまったんだよ。」と母は言った。東京大空襲の死者はおよそ10万人といわれている。私は子供心に、「もしその時母が死んでしまっていたら、私は生まれていなかったんだな」と思い、なんともいえない不思議な気持ちになったのを覚えている。

それから終戦までの日々を焼け出された家族がどう過ごしたのかは聞いていない。ただ一つ今も記憶に残るのは、食糧を求めて祖父と母が二人で前橋あたりまで自転車で出かけた時、土手の上でB29の機銃掃射を受けた話である。列をなす買い出しの人々に向けて低空飛行のB29が機銃掃射を浴びせて飛び去っていったという。母は自転車を放り投げて土手下に転がった。幸いにその時も二人は無事だった。今思えば体が大きかったとはいえ、まだ小学校を出たばかりの母が、よく深川から前橋まで行けたものだと思う。戦争は子供たちにとっていかに悲惨なものか。疎開から戻った母の日常はさらに困難をきわめ、母はそのまま教育を受ける機会を失ってしまった。小学校4年生程度の漢字しか知らなかった母に代わって学校からの書類や提出物はすべて私が代筆していた。


一方父は、江田島の海軍兵学校で終戦を迎えた。玉音放送を聴いたのかと質問すると、ちょうどその時用事を言いつけられて席をはずしていて聞けなかったという。父は戦争の話をほとんどしなかったが、広島に原爆投下された日のことを聞いたことがある。その二、三日前に米軍機がビラをまいていたので、新型爆弾が投下されることはわかっていたという。

8月6日、江田島の上を一機の爆撃機が低空飛行で広島の方へ飛んでいった。操縦士の顔がわかるほどの低空飛行であったという。そのあと、広島の方向にキノコ雲が立ち上った。父はずっとそれがエノラゲイであったと信じていた。終戦の3日後に解散命令が出て、海軍兵学校の学生は旅費を渡され広島からそれぞれの故郷に帰っていった。父はその時被曝直後の広島を通ったはずだが、それについては一言も語らなかった。私が幼い頃、時々兵学校時代の同窓生が訪ねてきて家でお酒を飲むことがあった。そんな時は、かならず「同期の桜」が出た。晩年にいたるまで同期の結束は固かったようである。しかし父はけっして軍国主義に染まっていたわけではなかったと思う。「何故兵学校に行ったの?」と尋ねると、「家が貧乏だったからだよ」と答えた。父方の祖父は歯医者だったが早くに亡くなり、七人兄弟の長兄である父は、一家を支えなければならなかった。そんな父が教育を受け、出世する道は兵学校しかなかったのだろう。父が海軍兵学校に合格したときは、町内会が提灯行列で見送ってくれたという。

しかし江田島での生活は厳しいものであったようだ。体も小さく運動神経も良くなかった父にとって厳しい訓練はかなりつらいものであっただろう。しかしそのおかげか水泳だけは上手だった。授業では英語が好きで、父の本棚には英語の本がたくさん並んでいた。後にそれがエミリ・ブロンテの『嵐が丘』やマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』などであると知って、父は本来文学青年だったのではなかろうかと思った。一番きらいな授業は日本思想で、浅見絅斎の『靖献遺言』の講義が一番いやだったという。

父は終戦時最上級生で、戦艦大和を見送ったというから、もし父が一年早く兵学校に入学していたら、大和で出陣する側で、やはり生きては戻れなかっただろう。そうしたら私も生まれてはいなかっただろうと思う。父は戦争について多くは語らなかったが、日本主義に洗脳されていなかったことは確かだと思う。戦後生きるために必死であった父は、いろいろな仕事をしたが、一度アメリカ人のバイヤーに誘われて、アメリカに渡ろうと思ったことがあったという。しかし家長として家族を支えなければならないという立場から、その夢は断念せざるをえなかった。その話を聞いたのはもう父の晩年であったが、驚くと同時に父の生きた戦中戦後の時代の過酷さを思わずにはいられなかった。

戦争はその時代に生きる人々の人生を情け容赦なく破壊する。そして渦中の一人一人にはまわりで起こっている事態しか見えない。焼夷弾が降る中を逃げ惑った人々も、指揮系統を失った戦場をさまよった兵士たちも、いったい何がどうなっているのか、戦争の全体などは知る由もない。そして戦略を考え、命令を出す側は現場でなにが起こっているのか、その個々の事象は把握していない。戦争とはそういうものである。

 大岡昇平が『野火』で戦場をさまよう兵士を描いたあと、『レイテ戦記』を書いたのは、彼自身が戦場をさまよっていたとき、フィリピン戦線で一体なにが起こっていたのかそれを知りたかったからだろう。しかしどんなに当時の資料を丹念に集めても、フィリピン戦線で実際に起こったことの全体は再現できるものではない。戦争を抽象化した戦略レベルで語るのではなく、個々人の身の上に起こったこととして考えるために、一人一人の戦争の記憶を伝えていくことは重要だと思う。

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