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「メタバースと人間の条件」

更新日:2022年11月28日

 最近メタバースという言葉がよく聞かれる。擬似空間とか仮想空間とか訳されているが、言葉通りにとれば、それはこのリアルな世界としてのユニバースに対する「もう一つの世界」を意味しているのだろう。それがゲームなどの仮想の空間であるというのなら想像もできるが、この現実の世界の他にもう一つの世界が広がっているという感覚は古稀を迎えるわれわれの世代にはない。


 そこでいくつか「メタバースとは何か」という類の本をのぞいてみた。そしてこれは大変なことが起こっているのかもしれないという思いを抱いた。知らず知らずのうちにメタバースはこのリアルな世界に浸透し、世界とその中に生きる人間の条件に影響を与えているのではないかと気付かされたからである。


第一にメタバースでは、人間の唯一性と多数性という根本条件が崩壊する危険がある。古えから今までどんなに多くの人間が生まれても、一人として同じ人間はいない。皆それぞれに唯一の「私」である。しかし一方、人は皆すでにある世界、この人間社会の中に生まれ落ちてその中で人となる。たった一人で生きられる人間はいない。つねに人と人の関係の中で多数の人と地球上のこの世界を共有しながら生きていくのである。


 だがメタバースでは、人は自分とは違う自分になれる。年齢や職業、性別さえ違うアバターとして生きることができる。このもう一つの人格は現実世界の制約から自由であるだけでなく、現実世界の自分からも自由なのである。メタバースにはメタバースの法があり人権があるといわれるが、それに従う限り、そこで別人格として生き、働き、そして金を稼ぐことさえもできる。重要なのは現実世界とメタバースを繋ぐ唯一のリアルなパイプが「経済」であるということである。単なるゲームと異なって、メタバースで儲けた金は現実世界でも通用する。


 昔から現実世界からの逃避というものはあった。たとえば隠者たちは山林に隠遁して現実世界の醜さ愚かさを睥睨していた。しかしそれはこの世界内での隠遁であり、否定的にではあれ世界への関心を失ってはいない。なによりその世界と対峙しているのは唯一の自分自身である。だがメタバースへの逃避は、現実世界からの逃避であると同時に自己からの逃避でもある。メタバースについての本の中で、「自分をリセットする」という言葉が使われているのには少なからず衝撃を受けた。歴史というものは決して後戻りできない。それと同じように人がしてしまったことはどんなに後悔しても決して取り消すことはできないし、また一度発した言葉もなかったことにはできない。この「取り返しのつかなさ」の感覚をもっとも鮮烈に描き出しているのはドストエフスキーの『罪と罰』の次の一節だろう。殺人を犯してしまったラスコーリニコフは熱に浮かされて歩き回ったあげく、ニコラエフスキー橋の上に立ち止まり、学生時代に何度もながめた壮麗なパノラマに見入りながら以前感じた不思議な印象への疑問を思い出す。



 ところがいま彼は急にこうした古い疑問と疑惑の念をくっきりとあざやかに思いおこした。そして、今それを思い出したのも、偶然ではないような気がした。自分が以前と同じこの場所に立ち止まったという、ただその一事だけでも、奇怪なありうべからざることに思われた。まるで以前とおなじように思索したり、ついさきごろまで興味を持っていたのと同じ題目や光景に、興味を持つことができるものと心から考えたかのように。彼はほとんどおかしいくらいな気もしたが、同時に痛いほど胸が締め付けられるのであった。どこか深いこの下の水底に、彼の足下に、こうした過去いっさいが、以前の思想も、以前の問題も、以前のテーマも、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、なにもかもが見え隠れに現れたように感じられた。彼は自分がどこか高いところへ飛んでいって、凡百のものがみるみるうちに消えていくような気がした。‥‥彼はこぶしを開いて、じっと銀貨を見つめていたが、大きく手をひと振りして、水の中へ投げ込んでしまった。それから踵を転じて帰途についた。彼はこの瞬間、ナイフかなにかで、自分というものを一切の人と物から、ぶっつり切り離したような思いがした。

 


ここに描かれた過去の自分との、そして世界からの切断の感覚。殺人という行為によって引き起こされたのは、もう決してそれ以前の自分に戻ることも、家族や友人だけでなくこの世界のすべてのものとの関係を取り戻すこともできないという恐ろしい現実であった。後悔などという生やさしいものではないその感覚をこれほど見事に表現したものは他にないだろう。


 文学も仮想空間ではないか、という人もいるかもしれない。しかしこの一節が今も私の脳裏に刻まれ、折に触れて浮かび上がってくるように、すぐれた古典文学はこの世界、現実というものの姿を我々に示してくれる。けっしてリセット可能な別の世界への逃避をいざなうようなものではない。物語や歴史が教えてくれるのは、現実世界の中での人間の運命、その行為や言葉のすべてを含めた人間の生のあり方である。


もう一つメタバースがこの現実世界と大きく異なる点は、それが万人による一つの世界の共有という感覚を持たない点である。「フィルターバブル」という新語がある。まるでバブルの中に包み込まれたように外界から保護してくれる透明の膜のようなもので、その中には自分と同じような意見を持つ似たもの同志が集められている。そこにいれば意見の対立や軋轢も生じないし、極めて居心地がよい。SNSの世界やメタバースは自分の関心に従って自分と同じような仲間が集う場所を探しに行くのだから当然である。最近はアマゾンやフェイスブックでも検索履歴や閲覧履歴によって、自分に合う商品やサイトを紹介してくれる。知らず知らずのうちに我々はフィルターバブルの中に取り込まれているといってよい。


 いまや過去のものとなりつつある新聞というメディアは、多少の偏向はあっても、世界で今何が起こっているのか、我々が知っておくべきことをある程度網羅的に掲載していた。紙面を広げればそこには、関心の無い出来事も、知りたくない現実も、まったく異なる意見も載っており、それを万人が同じように見ているという感覚もあった。だがフィルターバブルのなかでは、そのような多様性と異質性に出会う機会がない。そして異質な他者と対話することによって自らの視野を広げ、成長することもない。フィルターバブルの膜は、それぞれの小さな世界を隔て、断絶は深まるばかりである。異質な他者との対話を避け、対立する意見を持つ人を説得し、また理解しようとする努力を放棄することは、やがて偏見や差別につながっていくだろう。ハンナ・アーレントは我々は地球のいう丸テーブルの周りに座っているのだという。お互いにどんなに異なっていても共通世界としての地球への関心と愛を持ち続けることが重要なのである。しかしメタバースはそのような共通世界を分断し、現実世界からの疎外をもたらすかもしれない。


 地球温暖化が深刻な気候変動をもたらし、環境保護が叫ばれている一方で、世界は民主主義国家と全体主義的国家に二分されようとしている。民主主義国家の内部でも格差がひろがり、政治への信頼は地に堕ちている。ロシアとウクライナの戦争は泥沼化し、台湾有事が叫ばれる今、メタバースへの逃避は政治からの逃避であるだけでなく、自己からの逃避であり自棄に等しいとさえ言えるのではないか。


 かつて日本のファシズムが太平洋戦争に突入していったとき、多くの日本人はそれに抗する術を持たなかった。フィリピン戦を生き延びた作家の大岡昇平は晩年のインタビュウを集めた『戦争』という本の中で、次のように述べている。


 「戦争というのはいつでもなかなかきそうな気はしないんですよね。人間は心情的には常に平和的なんだから。しかし国家は心情でうごいているのではない。戦争が起きたときにはもう間に合わないわけだ。強行採決につぐ強行採決、なんにも議会に計らないで、重大な外交、内政問題をどんどん休会中にきめてしまう今の政府のやり方を見ていると、いつどういうことが行われるかわからない。権力はいつも忍び足でやってくるんです。(中略)ぼくはそういう戦争になる経過を見てきた人間として、兵士として、戦争の経験を持つ人間として、戦争がいかに不幸なことであるかを、いつまでも語りたいと思っています。この前は国内亡命ということでおりてしまったんですけど、同じことをひとつの生涯で二度と繰り返す気は、ぼくにはないんですよ。」


 ここで語られる「国内亡命」とは、日本にいながらまるで日本を離れて外国に亡命したかのように、日本の政治的社会的現実を傍観し、積極的に関わることを断念したことを指している。しかしメタバースへの亡命は、それにとどまらない「自己からの亡命」になるのではないか。異常気象や戦争は容赦なく命を奪う現実である。我々に何ができるのか。それは我々がどのような世界を望むのかにかかっている。たとえ一人一人は無力に思えても、世界への関心を失わないことがまず第一歩だといえるだろう。

 



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