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 江戸時代中期、大阪尼崎町(現在の中央区今橋3丁目)に建てられた町人学問所です。1724(享保9)年、富永芳春ら五同志が土地および基金を提供し、三宅石庵を初代学主として設立されました。当初は商人の子弟の教育を目的とし、石庵の学風も陽明学や朱子学を合わせ講ずるという折衷的なものでしたが、二年後の享保十一年には幕府の官許を得た学問所となり、二代目学主中井甃庵が五井蘭州を教授に迎えるに至って朱子学を中心とした学問的な基礎が確立しました。しかしそれは朱子学を金科玉条のように守るのではなく、むしろ批判すべきところは批判してさらに発展させていこうという自由な学風でした。また西洋天文学の最新情報をいち早く吸収するなど、従来の学問の枠にとらわれない革新的気象にみちていました。

 これは大阪が当時の金融経済の中心地であり、封建的社会を根底からゆるがし、新しい社会の到来を予感させる力をもっていたことと無関係ではありません。宝暦八年(1758)懐徳堂の学寮に掲げられた規則には「書生の交わりは、貴賤貧富にかかわらず同輩たるべきこと」と明記され、席順も身分の上下ではなく、年齢や学問の深浅によって互いに譲りあって決めることと記されています。懐徳堂は単なる町人学問所ではなく、士農工商という封建的身分秩序を横断する学問の場になっていったのです。

 やがて懐徳堂は第四代学主中井竹山とその弟履軒の時代に全盛期を迎え、その名声は江戸の昌平黌を凌ぐといわれるほどになります。当時懐徳堂は関西地方を旅する全国の知識人が一度は立ち寄る場所でした。天文学の研究を志す麻田剛立が、豊後杵築藩を脱藩して大坂を目指したのは安永元年(1772)のことですが、その剛立が身を寄せたのも懐徳堂の中井兄弟のもとでした。最新の知識と情報が集まる知的ネットワークの拠点として、大坂の自由な学問風土は、多くの才能を呼び寄せる求心力をもっていました。天明八年(1788)大坂に立ち寄った松平定信は中井竹山を呼び出して広く政治経済についての意見を聞きましたが、その時上申した内容をまとめたのが竹山の主著『草茅危言』です。

 懐徳堂は多くの鬼才を生み出しました。その創立期には、明治から大正にかけて内藤湖南らが、大坂が生んだ天才学者として顕彰した富永仲基がいます。また中期には竹山を支えて懐徳堂の学問を大きく発展させた中井履軒がおり、後期には中井兄弟に教えを受けた伝説の天才商人山片蟠桃が、懐徳堂の学問の集大成ともいえる『夢の代』を著しました。彼らに共通するのは、在野の学者としての自覚です。士官や利欲のために学問をするのではなく、むしろ既存の社会の中に場所を見出せない世の逸民であるからこそ自由な学問ができる。彼らの学問はそれゆえ徹底して武士的なものを批判しました。荻生徂徠に対する批判の厳しさはそれを物語っています。。また地動説などの最新の知識を受容する彼らは突出した知的エリートでもあります。そこから生まれた合理主義は、やがて神仏に迷う民衆に対して、神仏も死後の霊魂も無いという徹底した無鬼論を説いていきます。しかしこの過激な啓蒙思想は成長と熟成の時間を与えられることなく、やがて幕末維新の激流のなかに飲み込まれていくのです。

 明治二年、懐徳堂は140年以上にわたる歴史を閉じました。しかし近代の始まりにおいて懐徳堂が持っていた学問的創造力と求心力は、いまもなお、現代の学問のあり方を問い直す力をもっているといえるでしょう。

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